投稿日 2001年9月2日(日)22時34分 投稿者 小川一水
打ち上げ後すぐにでも前回の続きをUPしようと思っていましたが、諸事情により遅れて書きます。諸事情のうち最大のものは打ち上げの印象が予測をオーバーフローしたこと。
四日たった現在、やっと落ちついてまとめられそうになったので。
2001年8月29日16時、H−IIAロケット試験一号機は離昇し、私は彼の「音」を聞いた。
それを聞いた者は皆、他の人間に伝えるためにひどい苦労をするという。私も例外ではないが、試行する。
音は満ちる。伝わってくるのではない。射点から放たれた球形の音波が、到達と同時に周囲の大気を占領する。以後約一分の間に厚さ二十キロの音の殻が作られ、種子島のすべてのものを呑み込んでいく。
周波数帯を詳しく知っているわけではないが、全域を受けとめられたとはとても思えない。低域が可聴域の外にまで広がっていて、耳と体の許容範囲を越えているような感触。その低音と高音、主に二つの帯域に印象がわかれている。
低域はジェット機に似た轟音で始まるが、その音量は際限なく上昇し、すぐに既知の何物とも違う深い轟きになる。質量が感じられるほど重い。
高域は割れていて断続的である。短いサイクルで乾いた破裂音が連なる。落雷が至近にあったときの言葉にしがたい始めの部分。あれが続けざまに打たれる。
ロケットの音を表現しにくい理由が実感できる。一つの音ではなく、まともな音量ではないのだ。それは雷や暴風のような自然現象の音に近い。
人知の限界で産み出されたロケットは、その音もやはり人知の外にまで及んでいる。
そのような分析は、打ち上げの後すぐにでもできた。できなかったのはそれに何を感じたかを、見つめなおすことだ。
正直に言ってみる。期待ほどではなかった。
前回書いたように、理性や判断力を吹き飛ばすほどの威力を、私はロケットに期待していた。予想外のものを考えていたのだ。
ところが実際の音は、度外れでこそあったが、私の心がまえを根こそぎ覆すほどの力はなかった。肩透かしを食ったような気持ちさえしたものだ。
それがあったので、打ち上げ後に他の人から聞かれた際に、私は言葉に詰まった。どうだったと言われて――良かったです、でも、と留保がついたのだ。
かなり悔しかった。初体験だった他の人は猛烈に感動している。ケチをつけている自分が、理屈に凝り固まったわからず屋に思えた。
それからずっと、なぜ躊躇したのか考えていた。
単に自分の感受性が低かったせいか? ――違う。打ち上げ直前には、本当に手が震えてカメラが持てなかった。理性の枠を越えるだけの感情の揺れはあった。
あれが人間の営為だと思えないからか。雷ならば今さら驚かないから。――そうだろうか? どれだけの数の人の手が「彼」に関わっていたか、さんざん見て回ったのに。
初めてだったからむしろ理解しにくかったのか? それまでに何度も失敗を見ていれば感動があったのか。――いや。最初に見た打ち上げが成功であれ失敗であれ、強い感動を覚えてその後何度も見に来ている人もいる。
そう迷っていたが、今になって、打ち上げ後の記者会見の後、答えの手がかりのようなものを見つけていたことに気付いた。
文部大臣とNASDA理事長へ質問をした。「あなたは宇宙へ行きたいか」
大臣は否定的な返事を、理事長はほぼ肯定的な返事をした。大臣に対しては宇宙開発に関する人物というより、外部の一般人の代表と見込んで聞いたので、意外性はなかった。だが理事長の蛇足めかしたあの返事は、期待以上だった。
その質問をなぜ自分がしたのか。そこに鍵があった。
今回のH−IIAの積荷は、DREとLREという試験用のささやかな機械だけだ。重量的にも性能的にも、H−IIAの全能力を要するものだったとは言いがたい。
ロケットの音を聞きにいく。それが今回の目的だったはずだ。だがどうも、それは建前だったらしい。私は心の底で、もっとすごいものを欲していたのだ。
私はロケットに人を運ぶことを期待していたのではないか。
人類の最後の目標である宇宙進出、そのために力を振り絞って昇っていく「彼」が見たかったのだ。
だから、軽い荷物を積み、エンジンの出力も絞り、力を使いきらずに上昇していくH−IIAの音に、空しさを感じたのではないだろうか。
現時点ではずいぶん欲張りな注文だ。
でも見当違いだとは思わない。「それ」は実現されなければならない。するだろう。地球観測や惑星探査がなにほどのものか。それこそ建前だ。行きたいからやる、これでいいじゃないか。
ここまで書いて気付いたが、これは問題だ。つまり私は、有人ロケットができるまで打ち上げを見に行かないと言っているようだ。
でも私はそれほどストイックでもないし、無人ロケットに失望したわけでもない。こちらの期待が間違っていただけで、打ち上げは十分面白かった。
冬の二号機に行くかはわからない。むしろM−Vの再開が見たくなった。これだけ理屈をこねた以上、幅広くサンプルに当たって自説を検証したくなるじゃないか。
だからひょっとしたら、内之浦に行くかもしれない。
打ち上げを見ていない人は、以上の話が正しいかどうかわからないはずだ。
だから調べてほしい。本、雑誌、新聞、それにウェブ。いくらでも資料はある。そして議論してほしい。それこそが、私の、そしてSACの望むところだ。
どうしても自ら確かめたくなったら――
音を聞きに行けばいい。彼はまた上がる。
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